木下直之全集:今月の一冊:ハリボテの町

今月の一冊

木下 直之

シオヤライフ

この本のタイトルをハリボテの町にするか街にするかで悩んだ覚えはない。躊躇なく「町」を選んだ。27歳の秋、神戸の西の外れにある塩屋という小さな町に住むことになった。結婚を機に入った県職員住宅がたまたまそこにあったからだ。風に吹かれて飛んだ種がたまたまそこに落ちた感じだった。どこでもよかった。それでもだんだんと根をおろしているような気がしてきた。だから、塩屋に住んで、塩屋を歩きながら考えたことをまとめた本のタイトルに、「街」という選択肢はなかった(あくまでも個人の感想です)。

シオヤライフ

風景に馴染んできたなと思い始めたころ、変哲もない風景を写真に撮ってはハガキに仕立て、新しい土地の新しい友だちに無理矢理勝手有無を言わせず送りつけた。「シオヤライフ」と名づけた。その秘密は第9巻『近くても遠い場所』(晶文社2016)ではじめて明かした。

そんな近所の何でもない写真を撮ることが面白く感じ始めたころ、大阪の朝日新聞で「街を歩けば」という連載を始めた。藤森照信さんが新聞社との間をつないでくれた。その時にもタイトルを「街」ではなく「町」にしたかったが、社の方針でどうにもならなかった。写真の場所だけは読者に明かさないという方針をとった。

残されたんだ門

どこにでもある身近な風景の中に、どこにでもある問題を見つけたかった。たとえば「残されたんだ門」(本書14-15頁)という風景は、その後もいろいろな土地で目にしてきた。建物は取り壊したけれど、せめて門だけは残したいという思いがそこに宿る。塩屋に限った話ではない。

通勤兼散歩

藤森照信さんや赤瀬川原平さんらの路上観察学会(1986創立)の活動に刺激を受けたことはいうまでもない。とりわけ一木努(いちきつとむ)さんの「建築の忘れがたみ」展(INAXギャラリー1985)には感銘を受け、翌年、それがINAXギャラリー大阪に巡回した時に展評を書いた(読売新聞か神戸新聞だった)。

建築のかけらを収集する一木さんの執念もさることながら、建物が壊されたあとの喪失感に強く共感した覚えがある。風景は一瞬にして変わり、そうなるとそこにどんな建物があったのかはなかなか思い出せない。建物は個人の所有であっても、風景はみんなのものだと思った。 ただし、路上観察学会は仲間で楽しむ句会のようであり、私の面白がり方とは違うという思いもあった。ひとりでもっと過去へと入っていきたかった。

連載「街を歩けば」がこの本の出発点であり、この本の半分を占めている。連載が「ただの散歩」という章になり、のちに切り離されて朝日文庫となった。池内紀(いけうちおさむ)さんが「モノとモノノケ」というエッセイを寄せてくださった。

『ハリボテの町-通勤篇』表紙

街を念願の町に変えて『ハリボテの町』とし、「通勤篇」という変なサブタイトルをつけた。採り上げた風景の大半が通勤の途中で目にしたものだからだ。「ただの散歩」の冒頭で、「実は私の通勤は散歩のようなものなのです。それどころか、その先で毎日私を待っている仕事が、百年前の日本の町をぶらぶらするようなものなのです」だなんて、好き勝手なことを書いている。

この生活感は今も変わらない。ゆえに、この本で話題にしたことは今なお関心事でありつづける。つくりもの、駅前彫刻、凱旋門、男性裸体像などが気になってしかたがなかった。あらためてこの本を開き、四半世紀が過ぎても進歩も進化もないということに気づいて愕然とした。今だって文庫表紙の「ふたり連れ」を見かければ、男はまだ女の子を連れ回しているのかと呆れ(「辻に立つ男」本書104-105頁、文庫版184-185頁)、その姿を「誘拐犯足取り」と題したファイルに記録する。

残されたんだ門

駅前薬局

「私、駅前薬局の息子でございます」と題したあとがきに、浜松駅前の写真を添えた。そこには、本屋の店頭で立ち読みをしている私と弟が写っている。カメラを構えた父の視点が高過ぎると思われるかもしれないが、私の家は当時珍しい3階建てだった。父は屋上から撮っていた。今月の「近くても遠い場所へ」は駅前の写真から始めたい。駅前の変貌ぶりに対する驚きと絶望がこの本を書かせたような気がするからだ。

ハリボテであることを隠そうとする町についての考察

赤岩なほみ

フリーランス、本書編集者

1993年のスケジュール帳6月1日の欄に「木下直之」とあるのは、当時勤めていた朝日新聞社書籍編集部の上司から、「街を歩けば」という新聞連載を渡されたからだと思う。

これこそ何を隠そう、木下さんの2冊目の著書『ハリボテの町』冒頭の章だ。毎週木曜日の「朝日新聞大阪本社版」夕刊に掲載されていた。

ゴミ箱とか水飲み場とか、街を歩いて出会う「物」は、かつて何らかのわけあってそこに登場したのだが、「わけ」は往々にして忘れ去られ、遺された「物」は所在なさそうに見えたりもする。書き手は散歩しながら、「物」と「わけ」との関係を「探索するのも想像するのも楽しむのも目をつぶるのも、その人次第」と、呟いているように思えた。

じつはこの時すでに、木下さんはある種の界隈では注目の人だった。

まず路上観察学会の林丈二さんに電話をかけたのは、ネット検索という手段がまだ身の回りになかったからだ。林さんは、木下さんが企画した展覧会「日本美術の19世紀」がたいそうな評判だったことを教えてくれた。

次に電話した国際日本文化研究センターの井上章一さんはこともなげに、「来週の研究会で木下さんに話してもらうよ〜」と言った。

日文研でご本人と新著について語り合ったのは、編集者としては少し悲しい思い出だ。第1巻『美術という見世物』のことだ。同じ業界にも、炯眼(けいがん)の人はいた。

それから待つこと3年、「街を歩けば」(「ただの散歩」と改題)に「駅前彫刻」「凱旋門のある町」「記念碑にとまる鳥」の書き下ろし3章を加えて、『ハリボテの町』は成った。

驚くほど好意的だった当時の書評を保存していないのは残念だ。そして評価がかならずしも売れ行きに結びつかなかったことは、今でも私の残念を増幅している。

それはさておき、カバーにべたべたとあしらわれた、「この先つくりもん作品があります」という二律背反とも同義反復ともつかない立て看板は、これからの展覧会であらためて明らかにされるであろう木下さんの問題意識の、初期の証拠物件なんじゃないかと思っている。

「街を歩けば」木下直之さんに出逢えた。

松隈 章

竹中工務店設計本部、ギャラリーエークワッド、聴竹居倶楽部

木下直之さんと知りあえたのは、1992年から約1年半「朝日新聞」大阪版木曜夕刊に木下さんが連載した「街を歩けば」(「ハリボテの町」に「ただの散歩」として収録)がはじまりだった。それは木下さんが兵庫県立近代美術館の通勤途中に見たものを写真1枚と短い文章でお目にかけると言う単純な構成ながら、視点の面白さ、鋭さに毎週感心していた。それらは今に通じる木下さん独自の「街を捉える視点」と「あたりまえのもの」あるいは「あたりまえと思って見過ごしているもの」を見出すことの大切さを教えてくれた。あえて場所の記述は無かったが、写真に写る風景の多くが私が暮らす街、神戸市垂水区「塩屋」だったので、この人は絶対に「塩屋」の住民だと確信した。

埋め込まれた自販機

丁度、そのころ、日本建築協会(大阪)で、「30's EYE-21世紀へのエスキス」(1993年〜2000年)と言う連続講演会企画を始めていた。私が30代だった1990年代、同世代でこれからの活躍が期待される様々なジャンルの方々をお一人ずつお招きして少人数でお話をお聴きするもので、お話もさることながら、講演後に講師を囲んで飲みに行くのが何よりもの愉しみだった。私から「街を歩けば」の新聞連載をしている木下さんが面白そうなので、ぜひ、講師としてお招きしたいと建築協会の事務局にお願いし、講演当日に初めてお会いすることが出来た。木下さんが40代になる直前の1994年1月21日、講演タイトルは「駅前の文化について-駅前彫刻と造り物-」だった。お会いするなり、私から「木下さんは塩屋に在住ですよね」の挨拶から始まり、すぐに意気投合したが、翌1995年、木下さんと私は1.17阪神淡路大震災に同じ町で遭遇、「ハリボテの町」で紹介された狭い路地(実はメインストリート)にある建物に埋め込まれた「自販機が大きな顔でのさばっていない」塩屋らしい風景は失われたのである。

私が初めて知り合った美術館の学芸員が、当時珍しかった建築展「村野藤吾:建築とイメージ」展(1982年)の企画を手掛けた木下さんだったことが、2005年に創設したギャラリーエークワッドのアドバイザー就任やレンズ付きフィルム「写ルンです」を使った参加型イベント「100人の撮影会」の企画展へと繋がっていった。本当に深く長いご縁を有り難く思う。これからも塩屋人からスタートし少し先を歩む木下さんと、60's EYE-次代への文化資源学のエスキスを一緒に愉しみたい。