晶文社2002/2/25
木下 直之
このヘンなタイトルは、本書冒頭で明言したとおり、ルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』(法政大学出版局1984)からパクった。同書は「叢書・ウニベルシタス」の一冊だ。大きな本屋に行くと、白い背表紙に難解な、しかしちょっと気になるタイトルがずらりと並んでいるあの叢書だ。
ついでにいえば、第6巻『股間若衆』はもちろん『古今和歌集』から借りたが、第8巻『銅像時代』と名づけようと思った時に、頭に浮かんだ、というよりも耳に聞こえてきたのは上村一夫『同棲時代』(『漫画アクション』連載1972-73)という響きだったのだからお里が知れる。逆に、第5巻『わたしの城下町』はとりたてて小柳ルミ子の歌「わたしの城下町」(作詞 安井かずみ、作曲 平尾昌晃、ワーナー・ブラザーズ・パイオニア1971)を意識したわけではない。ただし、この本をテーマにNHK番組『視点・論点』に出演した時、冒頭で「わたしの城下町」を流してもらった。あらっ、これは「来月の一冊」だった。
「世の途中から隠されていること」とは「世の途中から隠されているもの」でもある。「もの」、すなわち物証を得なければ、「こと」は明らかにならない。本書には、そうした物証を数多く挙げている。その中から代表をひとつ選べといわれたら、躊躇なく、広島市南区皆実町(みなみまち)の平和塔を挙げる。
この地に日清戦争の勝利を祝う凱旋碑が建ったのは明治29年(1896)のことだ。記念碑の下を通る道は宇品(うじな)港につながっており、日清戦争でも10年後の日露戦争でも、日本軍は宇品から出陣し、宇品へと凱旋した。その凱旋軍を迎えるように建立された。
碑の頂点には、金色の鵄(とび)が羽を広げて止まっている。金鵄(きんし)は神武天皇ゆかりの鳥で、勝利のシンボルだった。日清戦争ではいたるところに現れ、各地の記念碑に舞い降りて今日に至っている。すでに第2巻『ハリボテの町』に第4章「記念碑にとまる鳥」があるとおり、博多櫛田(くしだ)神社の「明治二十七八年征清記念之碑」や仙台城址「昭忠標」などを追いかけていたのだから、当然、広島の凱旋碑も視野に入ってきた。
ところが、いざ現地に立ってみると、それが凱旋碑であることを示すものも、解説板も何ひとつない。それどころか、塔の正面には「平和塔」と記され、背面には「昭和二十二年八月六日」と刻まれているばかりだ。
この日に、のちに平和記念公園になる慈仙寺(じせんじ)の鼻(太田川が元安川と本川に分かれるあたり)を「平和広場」と呼んで、原爆炸裂から二年目を記念する第1回平和祭が開かれた。世の途中から何が隠されてしまったかは明らかだろう。広島で原爆ドームや平和記念資料館を訪れるのもよいが、平和塔の前に立つと、日本の近代が見える。
この旧凱旋碑・現平和塔を通じて、写真家の土田ヒロミさんと出合った。土田さんは早くから広島の原爆の記憶を追いかけ、その遺構を撮影しまとめた『ヒロシマ・モニュメントⅡ』(冬青社1995)に平和塔を収めていた。
同時に編集者の山内直樹さんとも知り合った。というよりも、ふたりは分ち難くつながっており、ポーラ文化研究所の季刊誌『is』やNHK出版などで長く仕事を重ねていた。そこに私も加わり、たびたびトリオを結成し、伊豆や出雲や広島、さらには大船観音や国会議事堂へと取材に出かけることになった。
それにしても、is(イズ)の伊豆の旅は楽しかった。熱海城を攻め、それから南下して下田に泊まり、翌日に下田城攻略を試みると、城の奥からなんと「大奥」という肩書きの名刺を持った社長夫人が現れてびっくり仰天したものだ。熱海城・下田城ともに天空の城、ならぬ架空の城です。
本書の「初出一覧」を見ると、半分近くが『is』に発表している。土田さんの写真に私が文を寄せるのではなく、土田さんが私の文に写真を寄せてくれるだなんて、なんと贅沢なことか。
その恩返しの気持ちもあって、土田ヒロミ最新作『フクシマ 2011-2017』(みすず書房2018)には、拙稿「この地に生じたとてつもない何か」を寄せた。
『is』での数々の取材からは、『ぬっとあったものと、ぬっとあるもの—近代ニッポンの遺跡』(ポーラ文化研究所1998)という、本書よりもさらに輪をかけてヘンなタイトルの本も生まれたのでご覧いただきたい。表紙は大船観音、これこそ風景の中に「ぬっとある」。そしてそれは間違いなく、何ごとかの物証なのだ。
本書のもう半分は、展覧会「博士の肖像—人はなぜ肖像を残すのか」(東京大学総合研究博物館1998)を下敷きにしている。私が美術館を離れて博物館に移り、はじめて企画した展覧会だった。美術館は美術品しか扱わないから窮屈だと思って飛び出したのだから、美術品かそうでないかはいっさい問わず、東京大学に存在するすべての肖像を対象にした。ただし、数が多いので写真は除外し、彫刻と絵画に絞った。
それらが誰の肖像であり、誰がその製作を呼びかけ、誰が資金を出し、誰が製作したのか、そして、いつどこにどのような理由で置かれ、現在はどのように存在しているのかを調べた。
それら肖像は大学の備品でもなければ財産でもなかった。同僚や教え子が資金を出し合って製作されたあとは、肖像になった当人(像主という)のゆかりの場所に置かれる。やがて、それが誰なのかわからなくなる。あるいは当人の身代わりであるがゆえに破壊される。大学紛争時にそれは当然のごとく起った。破壊にいたらなくとも、邪魔になる。邪魔にならないように、ならないようにと動かされる。そうして、吹きだまりのような場所に集まってくる。肖像というものばかりでなく、東京大学の姿をも明らかにすることができた。
土田ヒロミ
写真家
木下直之さんの「原爆十景への旅」の初出は、1999年「is」誌(ポーラ文化研究所)の特集<ストーン&モニュメント>。その写真取材同行に編集長の山内直樹さんは土田を指名した。木下さんの企画内容は、1947年に原爆遺跡に指定された「原爆十景」の風景から、モニュメントとその指定趣旨と記憶されるべき主題との関係性を提起しようとしたもの。一方、私は1979年からの「ヒロシマモニュメント」と名付けて、被爆遺跡(原爆被災資料総目録—原爆被災資料広島研究会編[1969年]を参照した)の風景を十年ごとに記録するシリーズの3回目をスタートしようとしていた。
この木下さんと土田の二つの風景を交差させ、誌面の視覚的な構造化を編集長山内さんは密かに期待したのだろう。確かに、両者寄り添うことなく併記的に編集されることで、トップ記事として成功していたのではないかと今も思っている。木下さんの一次資料は、1947年に指定された「原爆十景」風景。土田は1969年の資料を基にスタートしており、その歴史的時間の差異がむしろおもしろく編集構成に現れて居たといえる。両者の決定的な差異は、木下さんの「ヒロシマの記憶のために風景として何を残そうとしてきたか、その意識と現在性を戦後時代の流れに沿いながら論説している」に対して、土田の「モニュメントと指定をしないままに遺ってきてしまった遺跡などの風景が、何時か消滅、あるいは変化していく過程を記録し続けることでヒロシマの記憶の変容を見よう」というところにある。編集長の山内さんには、舞台の袖から眺めてこの演出に対する自己評価を確かめてみたいものだ。
さて、木下さんの広島への旅は、その後も毎年続いていて、私も何度かご一緒させていただいている。そして彼は近いうちに、その点と点を結んで、ヒロシマに対しておおきな思想化を発表するに違いないと、私は予感している。危険極まりない対象に挑戦して、様々な思考を生み出してきた木下さんが、さらにおおきくヒロシマのキケンに挑戦しないはずは無いと大いに期待している私である。
山内 直樹
『is』掲載時編集者
木下さんの最初の本を読んだのはずいぶん遅く、刊行されてから半年近く経っていました。読んでその内容にびっくりし、すぐ電話をかけてしまいました。お会いしたい、ご相談したいことがあります、と。こんなのは珍しいことでした。それで1週間後に、神戸の彼の美術館を訪ねたのです。彼はずいぶんお忙しそうでした。すぐ近くの喫茶店みたいなところへ行って、昼食をとりながら『is』という雑誌に連載をしていただけないか、連載のページはどうにでもつくれる、お好きなものをご自由に、とか言ったように思います。
季刊誌での連載は半年後から始まりました。「世の途中から隠されていること」というタイトルは何だかよく分からないなあと思いながら第1回の文章を読んで、すぐその意味を解しました。「ハリボテの時代」から「大仏でん」「ぶん鳥のとぶ町」などと興味深いテーマが続きました。ところが、初めだけ肩書(専攻)を日本美術史としていましたが、すぐ日本大仏史、日本分捕(ぶんどり)史、つくりもの史、奇物史、また雑誌の特集テーマに合わせて執筆したものにも奇想天外史、日本大浴場史、日本納骨堂史などとして、真面目に遊びまくっておりました。
彼は「落書きノート」のつもりでこの連載をされたようです。精力的に歩き回って写真を撮り、ものすごくメモする。その「落書き」から文章が立ち上がってくる。動き回っている姿が浮かんでくるような内容ですから、生き生きとします。あるとき知り合いが、木下さんはお忙しいのにあっちこっち動き回って、それでよく書く時間があるなあというので、彼は歩きながら書いているのよ、と答えました。学問についてだったか、重箱の隅を突っついているといつか穴があいて大きくなると、どこかに書いていたようですが、ひと昔前に流行った言葉でいえば、一点突破の全面展開っていうヤツでしょうか。歩く、一点突破の――。
『is』に連載、また特集に書いたものを中心に、1994〜2002年に他の雑誌に書かれたものを加えて編まれた本書は、珍しく増刷されました(5刷になっているのかな。トータル部数は知らないけれど)。編集されたのは足立恵美さんですが、彼女は後にまた木下さんの本を編むことになるので、今回は小生が雑誌連載時の担当だったということで書かせていただきました。