岩波書店2014/3/27
木下 直之
多くの人がそうであるように、私にとっても、銅像は長らく関心の外にあった。視野に入って来ない。いや視野の片隅にはあったのかもしれないが、見えていなかった。そもそも銅像とはそのようなものかもしれない。除幕式で一斉に注目を浴びると、あとは日々忘れられてゆく。
それよりも先に気になったものは、駅前広場に置かれた抽象彫刻だ。たぶん、そのきっかけは生家の目の前に出現した「伸びゆく浜松」というモニュメントで、それが第2巻『ハリボテの町』を書かせることになった。
銅像を意識するようになったのはずっと遅く、1998年秋に、東京大学総合研究博物館で開催した「博士の肖像」展を企画したことによる。その前年に、16年半にわたって勤めた兵庫県立近代美術館をやめて博物館に移ったばかり、博物館でのはじめての仕事だった。「東京大学コレクション」というシリーズの第8弾だった。
これはすでにあちこちで書いたことだが、学芸員として経験を積むうちに、美術館は美術作品しか扱わないから窮屈だと思うようになっていた。その点、博物館は美術作品も扱うが、美術作品以外の、人が手を下したあらゆる製品、人工物、人造物を扱うから間口が広い。自然史博物館や科学博物館はさらに広く、自然物、天造物、森羅万象を相手にする。
だから美術作品は小さな存在だというつもりはない。美術館学芸員は「作品」という言葉を後生大事にし、博物館学芸員はそれも含めて「資料」と呼んで、ある意味、冷たく突き放す。この違いは大きく、ゆえに両者の学芸員の間でしばしば会話が成り立たない。そのことが気になって仕方がなかったのだ。
「作品」から離れる、いったんこの言葉を捨てることが肝腎だと思い、それに代わるものとして「つくりもの」に注目した。『ハリボテの町』の表紙に「この先つくりもん作品があります」という看板を使ったのは、そうした気持ちからだ。
銅像は俗称であり、正しくは金属製の肖像彫刻と呼ぶべきだが、銅像という言葉には、それを口にしたとたんに、周囲の風景まで浮かんでくるような強い喚起力がある。同時に、芸術性に欠けた俗な存在といった、少し見下したようなニュアンスがある。銅像そのものよりも、銅像になった人物のそのあり様を、本人がそれを望んだか否かを問わず、笑うようなところもある。
銅像はつぎのようなプロセスで出現する。何よりもまず、銅像とはある人物の身代わり(肖像の「肖」は「似る」という意味)である。したがって、当人の不在がその製作の大きな動機となる。いうまでもなく、死が究極の不在だが、大学の場合は退職という不在もある。これらの不在を埋めるかのように、あとに残された人たちが、当人ゆかりの場所に身代わりを置いて、いつまでも忘れまいとする。
同時に、当人が顕彰(けんしょう)に価する人物であることが求められる。もちろん、自分で自分を「顕彰に価する」と判断する人もいるだろう。ついでに銅像建設まで自分で決断する輩もいるが、それはしばしば俗物の証(あかし)として冷笑の対象になる(本書46頁参照)。
さて、周囲の誰かが建設を言い出す。発起人が決まる。建設資金を集める。彫刻家に製作を依頼する。当人(これを像主(ぞうしゅ)という)が生きていれば、モデルになる(仕上がった肖像を寿像(じゅぞう)という)。すでにあの世に旅立っていれば、写真や記憶を参考にする(こちらは遺像(いぞう)という)。写真嫌いの西郷隆盛には参照すべき写真がなかったし、もっと古い時代の人物は写真がなく、想像でつくりだすほかなかった。
これが銅像出現のプロセスであり、銅像というものの全体像である。本人に似ているか(これを肖似性という)がまずは求められ、芸術性は二の次になる。だから、それを彫刻家の「作品」ととらえることは、銅像のある一面に光を当てたにすぎない。
晴れて完成すると除幕式を迎える。それまでに台座も用意しなければならない。台座についての研究は乏しく、本書に寄せた「台座考」は、建築家を視野に入れたことで、銅像研究にいくらかは寄与できたように思う。
銅像の「人生」にとって、つぎの大きな転機は、それが誰なのかが忘れられた時だ。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、間違いなく起る。名前だけはかろうじて伝わったとしても、どのような人なのかがわからなくなる。なぜなら、その人を知っていた人たちもまたその場を去り、さらにこの世を去るからだ。
すると、銅像は邪魔になる。邪魔にならないところ、ならないところへと移される。大学の構内では、廊下の隅だとか階段の踊り場とかがまるで吹きだまりのようになっていた。
銅像は重くて動かないと思ったら、大間違いだ。いとも簡単に移動する。騎馬像でさえも動く。乗っている馬が自分で動いてくれれば助かるのだが、もちろんそんなわけにはいかない。したがって、そこにはとても大きな力が働く。動かさずに、その場で破壊してしまう力だって働く。
本書第6章「ある騎馬像の孤独」では、最初は国会議事堂前の陸軍省にあった陸軍大将山県有朋像が、敗戦後に国会前を追われ、上野公園の東京都美術館裏、井の頭自然文化園、そして山県の故郷萩の中央公園へと転居を重ねる一部始終を追跡した。われながら、そうとうシツコイ。
桑原 涼
本書編集者
本書の序章「銅像時代のはじまり」は、高村光雲・光太郎親子の物語だ。帯にも、「明治42年夏、パリから帰国したばかりの高村光太郎(26歳)に〈銅像会社〉設立の話を切り出したのは、父・高村光雲(57歳)であった。光太郎は激しく反発したが、日本社会は明らかに〈銅像時代〉を迎えていた−−。」と記されている。
その右に、岩波書店のマーク〈種まく人〉が見える。ホームページによると、ミレーの絵から直接とったのではなく、高村光太郎がつくったメダルからエッチングに起こしたものだという(それにしても、絵柄が違いすぎるように思うが)。光太郎と岩波書店の縁は、深いのである。
知人から、岩波書店の歌「われら文化を」の歌詞を教えて、というメールが来たのは、『銅像時代』の入稿作業にかかったころだ。「われら文化を」を歌った経験はないが、高村光太郎作詞、信時潔(のぶとききよし)作曲で、歌詞は3番まである。
歌詞と楽譜は、岩波書店のPR誌『図書』の1942年12月号(戦前終刊号)に載っている。この号は「回顧三十年感謝晩餐会」特集だ(ちなみに、表紙はミレーの素描版〈種蒔き〉)。岩波茂雄が11月3日(明治節)に大東亜会館(現・東京會館)で催した会で、光太郎は「三十年」という詩(岩波書店の歌に触れている)を朗読し、「われら文化を」は、会の最後に安倍能成(あべよししげ)によって紹介され、合唱団が披露している。
古い『図書』が手元にあったので、すぐに返事が出せたが、もとはといえば、木下さんが『図書』の前身である『岩波書店新刊』『岩波月報』を研究している学生さんを連れて来社されたことがあり、それがきっかけとなって、自分でも集め始めたのだった。
『銅像時代』は、年度末ギリギリの2014年3月27日に刊行された。カバー図版は、木下さん撮影の〈楠木正成像〉(高村光雲ほか)。カバー袖の紹介文も、前述の帯の文案も、木下さんの手をわずらわせてしまった。徹夜で仕上げた人名索引では、出現回数1位は高村光雲。偉大な父を持った光太郎は、靖国神社の〈大村益次郎像〉で知られる大熊氏廣(おおくまうじひろ)と2位争いを演じている。
坂口 英伸
国立新美術館学芸課美術資料室アソシエイトフェロー
「これ、セメント製じゃないの?」と、本郷の居酒屋「加賀屋」で木下先生から問いかけられた。やや赤ら顔で上機嫌な木下先生が差し出したスマートフォンの画面には、鶴岡八幡宮の参道に鎮座する白亜(はくあ)の狛犬が映し出されていた。鎌倉市在住の木下先生が散歩中にこの狛犬の存在に気付いて撮影したという。木下先生のさり気ない心遣いに感謝した。調査の結果、1961年に小野田セメント株式会社(現在の太平洋セメント株式会社)が白色セメント製の狛犬と獅子の像を鶴岡八幡宮に奉納したことが判明した。
『銅像時代−もうひとつの日本彫刻史』には、数多の銅像が登場する。銅が金属として有する「物理的に硬い」という堅牢(けんろう)性が、後世へ記念すべき事項の継承を目的とする銅像に好適だったからだろう、近現代日本は強迫観念的とも思えるほどに数々の銅像を作ってきた。昭和3(1928)年には、銅像写真集として『偉人の俤』(二六新報社)が発刊された。同書は日本国内をはじめとして、満洲・朝鮮・台湾などに存在した肖像彫刻や記念碑700基余りをほぼ網羅し、その像主は神話上の人物、天皇や華族、宗教家、政治家、軍事関係者、実業家、さらには地方の名士にまでと多岐にわたっている。
近代彫刻の素材という点では、石材・木材・陶土・乾漆などを押さえ込み、銅がヒエラルキーの頂点に燦然(さんぜん)と君臨するが、天邪鬼(あまのじゃく)の筆者は銅像の影に隠され見向きもされなかったセメント像を調べ、文化資源学研究室に修士論文として提出した。
木下直之編『博士の肖像−人はなぜ肖像を残すのか』にずらりと居並ぶ博士の銅像を眺めていると、銅像とセメント像は表裏一体、その関係はオリジナルとコピーの問題を内包すると気が付いた。慢性的な金属不足に陥った昭和戦時下の日本では、昭和16年(1941)の金属類回収令によって、多くの銅像が撤去されて姿を消してしまった。東京帝国大学では、博士の銅像のスペアとしてセメントで鋳造(ちゅうぞう)した代替像を制作。仮に銅像が供出されようとも、のちにセメント像を原型として再び銅像を鋳造できると考えたからだった。
『銅像時代』のあとがきによれば、博士の肖像展(1998年)の企画時に木下先生の銅像行脚が始まったという。文字どおり木下先生が「足で稼いだ」調査によって書かれた本書には、近現代日本の銅像の歴史と諸問題が詰め込まれている。
鈴木 恵可
東京大学大学院総合文化研究科 研究生
私は台湾近代彫刻史と銅像の研究をしているのだが、それを言うと文化資源学専攻の人には「ははん」と納得した顔をよくされた。指導教官とテーマが瓜二つだからだ。だが、いま正直に告白すると、大学院入学前に読んだ木下先生の本は『美術という見世物』のそれも最初の部分をコピーしたものだけで、それは当時貧乏でろくに本が買えなかったせいもあるが、肝心の『銅像時代』が私の修士修了後に出版されたせいでもある(中身の初出はもっと以前)。
2010年春に修士課程に入り、私は半年後台北に留学した。数ヶ月しても中国語がたいして上手くならずやや焦っていた頃、先生から台湾で資料調査をする旨メールを頂いた。文化資源学には台湾人卒業生がおられ、幸い通訳の心配はない。ただ、来台三ヶ月前から、あれとこれとこの資料ありませんかとの先生の連絡に、私は慌てて図書館に走ったりした。先生がやっと到着され、三日間しかないなか台湾博物館の収蔵庫で見たものは、しかし原画ではなく印刷物で、先生は若干がっかりされていたように思う。私はというと、これで仕事は一段落とほっとしていた。だが、先生の帰国後数日でまたメールがやって来た。関連資料がなんと東大図書館にあったというのだ。それは良かったというより、この忙しい中まだ探していたのかと私はそのこだわり方にちょっと呆れてしまった。先生の謎の探求力には、台湾に残る戦前の銅像について書かれた「秘史「銅像」に歴史あり」(『文藝春秋』2010年2月号)をこれまた後から読んだ際にもぶつかって、「しまった、もう先に見られていたか」と私は少々口惜しかった。
あの時の成果「台湾戦争図再々考」は、一年後に日本に戻った際、先生から「これこれ」と手渡して頂いた記憶がある。その後何年も経って、先生が新しいテーマからテーマへと飛び回られている間、私はまた台湾に来て同じようなことをのろのろ続けている。唯一、中国語だけは少し上達した。