晶文社2016/9/30
木下 直之
遠くへ行きたい。これは誰もが一度は抱く願望だろう。若い時ほどそうだ。生まれ育った町を出たい。親元を離れたい。遠くへ行きたい。知らない町を歩きたい。私だって、20歳を過ぎたころに、そんな衝動を抑え切れずにスペインまで出かけて行って、マドリード郊外の修道院で暮らした。
こんなことを書いていると、「知〜らない〜ま〜ああちを〜、歩い〜てみ〜たあい〜、ど〜こ〜か遠〜くへ〜ゆきいた〜あい」(作詞永六輔、作曲中村八大、東芝レコード、1962)というジェリー藤尾の歌声がどこからともなく聞こえてくる。
それを打ち消して、「近くもまんざらではない」と宣言する。「どこかへ連れてって」とせがむ妻と子の訴えを退け、「近くへ行こう」と提案する。「知っている町を歩く方が、知らない町よりも発見の喜びがはるかに大きいよ」と説得にかかる。それに安上がりだし。ほとんど屁理屈(へりくつ)。これは、そんな説得術を書いた本だといえないこともない。
では、「近くても遠い」とはどのようなことなのか。おそらく、それは別の時代へと一気に連れ去られる感覚なのだろう。それは歩いている時にしばしば起るが、それこそ一歩も出歩かずに、本を読んだり、写真を眺めている時にも突然やって来る。 もっぱら連れ去られるのは私ひとりで、家族いっしょに、というわけにはいかない。したがって、妻と子に向かって、「近くに行こうよ」と提案するのはよいが、調子に乗って「近くても遠いところに行こうよ」と誘ったところで、まったく相手にされない。
昭和20年(1945)9月2日、横浜港沖に浮かんだ米国戦艦ミズーリ号の甲板(かんぱん)で、降伏文書の調印式が行われたことはよく知られ、その時の写真や動画を今ならインターネットで簡単に目にすることができる。それら映像のほとんどが調印式に臨む日本政府および日本軍代表を正面からとらえたものだから、彼らの目の先に何があったのかまではわからない。
彼らの背後から写した写真がある。そこでは甲板や艦橋に鈴なりになった乗組員たちが、緊張した代表団を見下ろしていた。その中に、額装された星条旗が壁に掛かっている。星の数は三十一しかなく、現在より十九も少ない。理由はそれが19世紀半ばの星条旗だからで、嘉永6年(1853)夏、ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時に旗艦(きかん)に翻(ひるがえ)っていたものを、この日のためにわざわざ本国から取り寄せたのだった。マッカーサー元帥は自らをペリー提督になぞらえ、日米関係が振り出しに戻ったことを告げた。「はじめからやり直し!」と命じたのだった。
昭和24年(1949)9月2日、富山駅前で「平和群像」という平和記念碑の除幕式が行われた。もともとは駅前広場の中心にあったが、度重なる駅前再開発で脇へと追いやられた。堂々たる男性裸体像、女性裸体像が碑の周囲をかためるという点で、その建設の経緯を追いかけたが(「文化国家とヌード」『股間若衆』所収)、除幕式を降伏文書調印の日に合わせたことが興味深い。敗戦からまだ4年しか経っておらず、その記憶は生々しかったのだろう。降伏よりも、むしろ平和到来、再出発の日という思いが強かったのかもしれない。しかし、終戦といえば8月15日ばかりが刷り込まれて、9月2日はすっかり忘れ去られた。
戦争のことばかりを書いた本ではないのだけれど、芋づる式に、「先の戦争の中の先の戦争の記憶」が引き出されてくる。終戦時、日清戦争や日露戦争の記憶はどうなったのだろう。戦前の日本の歴史が一切合切否定されたようなところがあるから、多くのことが忘れられ、あるいは忘れようとされた。しかし、過去を白紙にはできない。過去はいたるところに顔を出す。
凱旋濠(がいせんほり)
皇居のお濠にこの名前が残っている。日露戦争の勝利を祝って宮城前広場(現在の皇居前広場)が整備された時、霞ヶ関に向かう一本の道路が通り、日比谷濠を分断した。桜田門までの間が凱旋濠と名づけられた。凱旋門建設の話もあったのだが、これは実現しなかった。代わりに、仮設の凱旋門が東京市内のいたるところに建てられた。とても不思議なのだが、恒久的な凱旋門がわずかに2棟、鹿児島県姶良(あいら)市山田と静岡県浜松市引佐(いなさ)に残っている。どちらも驚くほど小さな山村だ。そんなところからも大勢の出征者があり、戦死者を出した。
御府(ぎょふ)
桜田門の前から皇居内をうかがってもなかなか見えないが、Google Earthを使えば一目瞭然、吹上御苑の一隅に「御府」と総称される戦利品の蔵が建ち並ぶ。日清戦争では振天府(しんてんふ)、日露戦争では建安府(けんあんふ)、シベリア出兵では惇明府(じゅんめいふ)、満州・上海事変では顕忠府(けんちゅうふ)がつぎつぎと建てられ、戦利品が収蔵されるとともに戦死者が祀られた。それらの戦後処理について追いかけた。最近は宮内庁書陵部(しょりょうぶ)資料の情報公開が進んだため、蔵の内部も知ることができる。
三笠
言わずと知れた日露戦争での聯合(れんごう)艦隊の旗艦。日本海海戦の勝利を讃えて、退役後も横須賀に保存された。多くの見学客を集める関東有数の戦争博物館だったが、戦後は一転して娯楽施設に変わった。ダンスホールや水族館があったが、サンフランシスコ講和条約締結後(つまり独立回復後)に再び戦艦の姿を取り戻した。同時に戦後の荒れ果てた姿が忘れられた。
広場の曼荼羅(まんだら)
東京大学本郷キャンパスの図書館前広場。昭和61年(1986)、広場の整備を手掛けた建築家大谷幸夫の構想。「曼荼羅」と名づけて、戦没学徒の慰霊の場にしようとした。実は、終戦まで図書館内には戦没者記念室が設けられていた。大学による慰霊の場は先代の図書館内にもあり、日露戦争の戦死者が祀られていた。戦後は、それらのすべてが大学から放り出された。そのひとり市川紀元二は銅像にまでなっていたが、構内に止(とど)まることを許されず、故郷の静岡県護国神社に引き取られて行った。東京大学は戦争に背を向けている。
足立 恵美
晶文社編集部
川添裕さんや山内直樹さんら先輩編集者の仕事に導かれて、木下直之さんに出会った。いつか本を作ってみたいと念じていたら、山内さんから『is』の連載を中心に木下さんの本を晶文社で出してみませんか、とお話をいただいて、二つ返事でお引き受けしたのが『世の途中から隠されていること』だった。それから約15年、そろそろ原稿がたまっておられることだろうと、声をかけてできあがったのが、『近くても遠い場所』だ。
前半は紀伊國屋書店の『ifeel』誌の連載が中心。木下さんが生まれるちょうど100年前、1854年からの100年、10年ごとの時代について振り返っていった。ここでも木下さんは、おかしな発見をいくつもしている。「ふたつの星条旗の間で」と題した文章には、1945年9月2日太平洋戦争の降伏文書調印式が行われた戦艦ミズーリ号の写真が掲載されている。そこに写っている星条旗は、ペリーが日本遠征の際の旗艦(きかん)に翻(ひるがえ)っていた旗なのだ。『重光葵(しげみつまもる)手記』にこの旗のことが出てくるが、その旗を写真の中に見つけてしまうのが、木下さんなのだ。
本書には、それまでの著作に見られたように、生人形やつくりもんや絵馬堂、銅像など、木下さんが光を当ててきた様々なものが出てくるが、むしろ今回は、一枚の写真や一枚の絵、風景などを頼りに、過去へと深く旅している。
「古都鎌倉異(こと)案内」では、鶴岡八幡宮寺(神社ではなく寺)の様子が鮮やかによみがえる。いま現在は朱色の鳥居があって、それはずっと以前からそのようにあるものだと思っていたけれど、かつては参道には巨大な仁王さんが待ち受けていたという。
木下さんといっしょに風景や時間を歩いていくと、いつのまにか、私たちはちがった場所にいる。着眼点の鋭さは旅への入口で、あとは木下直之の語り口、飄々とした文体が私たちを風景と時間の奥へと連れ去る。そうしてたどりついた場所は、美術批評のジャンルにとどまらない、真の文明批評であると、私は思っている。
息子さんに表紙を描いてもらっている無印良品の取材のためのノートは、現在では120冊近くにのぼるという。細かい手書きのメモの間に図解が混ざる。そのノートがあまりにもすばらしいので、デザイナーの寄藤文平(よりふじぶんぺい)さんと鈴木千佳子さんが装丁に使った。そのことを最後に付け足しておく。
矢内 裕子
エディター&ライター、「ひょんなことから」連載担当
目の前に置かれた、1枚の古い写真。
被写体の輪郭もぼやけている、セピア色の写真が、木下さんの言葉とともに立体的に立ち上がり、時には映っている人物同士が会話を始める声まで聞こえてくる気がする。
紀伊國屋書店のPR誌「ひょんなことから」の連載中、幾度もそんな経験をした。
自分が見ていた写真が、あっという間にその印象を変える。
木下さんの文章にはいつも、読む前と後の世界の見方を変える効果があって、ひそかにそれを〈キノシタ眼鏡〉と呼んでいる。この眼鏡をかけると、いつものなにげない日常の風景に、気づいていないだけで、なにか面白いものが隠れているのではないか、と思わせてくれる。
「学芸員の方が喜びを感じるのは、どんなときなんでしょう?」
と、研究室で木下さんにお尋ねしたことがある。
連載のお願いにうかがったときで、木下さんが東京大学に移られてさほど時間が経っていなかった頃だと思う。
自分にとっては、と前置きして、
「展覧会場で設営をする前に、集まってきた展示作品を並べて、見渡しているとき」
と、おっしゃった。
自分で企画をたて、交渉し、作品を蒐(あつ)める学芸員の方にしか見ることができない景色は、なるほど醍醐味なのだろう、と思った。
編集者にとっての喜びは、最初の読者として原稿を読み、仕上げていく作業に伴走できることだろう。ときには担当編集者の特権として、〈キノシタ眼鏡〉を自分好みに、ほんの少しカスタマイズしてもらったりして。
ただ、「ひょんなことから」の途中で私が会社を移ることになり、本にまとめるという最大の喜びをまっとうできなかったのは、自分の責任とは言え、残念で仕方がない。
なんだか退屈だったり、気持ちが湿って仕方ないときに、どれでもよいから、木下さんの本を開く。読み進むうちに、なんだ、世界はとても面白くて、出かけてみたくなるところじゃないか、と思う。
読者を散歩や旅に誘ってくれる本が多くはないことを、私たちは知っている。
藤森 照信
建築史家、建築家
今にして思うと、建築史研究を目指した若い頃より、時代の変革期に鎌首をもたげる造形上のヘンな想像力に関心があった。たとえば、明治初期の擬洋風建築とか、暁斎(きょうさい)という画家の存在とか、伊豆長八の漆喰(しっくい)絵とか。
こうしたヘンなものへの関心をどう扱ったもんかと迷っている時、木下直之の存在を知った。最初は、兵庫県立近代美術館に勤め、明治初期のヘンな絵を集め、堂々と正面から論じる変わった学芸員として知った。
以来、彼の仕事からは目を離さないようにしてきたが、たとえば『近くても遠い場所』の中に、暁斎と漆喰彫刻が二つとも取り上げられている。彼の論考は、言葉の一つ一つが私の脳細胞をピンピンと刺激し、ページをめくる手を止め、あれこれ考えるよう仕向けてくれる。
たとえば、漆喰絵はなんで変革期に表立つんだろうかを考え始めて、安土桃山時代に思考はジャンプし、そういえば安土城に続くお城も丸ごと漆喰で包まれていたが、あれは防火上の工夫というだけでなく、変革期の想像力の発露だったんじゃないか、とか。漆喰は泥の一種でもあり、最初は液状なのに短期間で固体化するという錬金術的性格が、変革期の想像力と通底しているんじゃないか、とか。
私の脳細胞にとって木下の言葉はキムチのような働きをしている。